わたしはそれ/THATそのもの

「美とはあなた自身で在ることです。他者から受け容れられる必要はありません。あなたがあなたを受け容れる必要があるのです」これは、ティック・ナット・ハン師の、わたしの好きな引用の一つです。わたしたちの不安や弱さが、ある日すべて消えてなくなり、混乱が取り除かれることを期待してスピリチュアルな旅を始めるのは容易ですが、それは現実的ではありません。霊性が指し示しているのは、わたしたちの欠点や傷をエアブラシで消すことではなく、より深い理解への入り口として欠点や傷の真価を認めることなのです。

真の自己受容/セルフ・アクセプタンスとは、欠けているように思える欠点を含めて、すべてをその在るがまま愛することなのです。 わたしたちの欠点はまったく欠点ではなく、祝福なのです。わたしたちの傷は汚点ではなく、神聖な遺物なのです。それでは、わたしたちの不完全さは真のわたしたちではないと知りつつ、どのようにしてわたしたちは不完全さを尊重したらいいのでしょうか。

わたしたちは傷つきやすさも含めて、自分自身を在るがままに受け容れたいと思っていますが、その一方で、傷ついてしまったわたしに捉われることによって、わたしたちはそれ/THATそのものである(*)という、わたしたちの壮大なアイデンティティを見失いたくはありません。そして、わたしたちには感情があるのも事実ですが、真のわたしたちは感情そのものではありません。しかし、この双方をコインの両面として認めて受け容れると自己受容/セルフ・アクセプタンスの助けになります。

わたしたちの内には、パーソナリティーや、学んできたことや、思考や行動のパターンによって影響を受けることのない、それらを超越した現実があり、これがわたしたちの内面で起きているすべての背景だと神秘の叡智は伝えています。真っ白なキャンバスにすべての色彩が色鮮やかに描かれるのです。このキャンバスも色彩も、わたしたちの存在というアートを制作するためには、無くてはならないものなのです。

様々な霊的な伝統では、このすべての背景を異なった呼び名で言及していますが、わたしたちはわたしたち自身が知る以上の存在だということが基本的な前提となっています。わたしたちは混乱や複雑さの塊ではなく、明晰さそのもなのです。わたしたちは波だけでなく、その背後で広がる海でもあるのです。わたしたちは半分だけ目を覚まして人生を通り抜けることもできますが、わたしたちの一部は常に目覚めているのです。

それでは、どのようにして、この理性では理解し難いパラドックスの領域を、わたしたちは操縦していけばいいのでしょうか。どのようにしてわたしたちは自分たちの感情をあるがままに受け容れつつも、感情は自分自身ではないと認識していることができるのでしょうか。

仏教の教えでは、二つの真実があることを指摘しています。相対的真実とは、物事がどのように現れているのかという相対的な視界ーーつまり、わたしたちの人生のストーリーのことです。絶対的真実とは、現れているものすべてを超越した状態という絶対的な視野ーーつまり、現れているもののすべての根底に変わることなく息づいている純粋意識のことです。これら二つは、互いに排他的ではありません。わたしたちは打ち砕かれると同時に、打ち砕かれることのない完全性そのものでもあるのです。わたしたちの相対的な体験からズームアウトして、より大きな視野を得るようになることが、その秘訣です。

サンスクリット語には、観ている意識という意味のサクシ・ヴァーバと呼ばれる用語があります。観ている意識とは、判断せず、また同一視せずに、わたしたちの体験をありのままに観ている能力のことです。例えば、映画のスクリーンは、そこにどのような画像が映し出されるかということについての好みや意見がありません。このように、わたしたちも同一視したり理解しようとはせずに、思考や感情を観ているようになることができるのです。

飛行機に乗ると、高度が上がっていくにつれて、曇っていても雲の上はいつも晴れているということがわかります。同様に、わたしたちの感情は雨の日と同じようにリアルですが、それは一面的なものの見方で全体像をとらえてはいないのです。感情という絶え間なく変化する天候の背後には、感情にはまったく影響を受けることのないすべてのことを観ている意識という空が広がっているのです。この意識は、チャンティングを通してアクセスすることができるものなのです。わたしたちが音楽にゆだねて、すべての音の源にわたしたちを連れていくようにさせればーー音の背後に広がる静寂へと。

サンスクリット語では、この静寂の源に直接呼びかけるという種類のマントラがあります。これらはニルグナ・マントラとして知られています。ニルグナという言葉は、形態を持たないという意味です。このタイプのマントラは他のマントラよりも、より抽象的です。サグナと呼ばれる具体的な神や形態に注目するのではなく、ニルグナ・マントラはすべての概念を超える超越した現実に呼びかけるのです。

基本的に、ニルグナ・マントラは神の個人的な性質である個のわたしたちを飛び越え、わたしたちの源に向かって真っ直ぐに進んでいきます。すべての創造物とわたしたちはひとつであるというワンネスの真実を、わたしたちが認識することを助ける音のフォーミュラのようなものなのです。ニルグナ・マントラを唱えると、わたしたちの真のアイデンティティーはわたしたちの制限のある個/エゴをはるかに超越するものだという事実をわたしたちは受け容れるでしょう。

このことをよりわかりやすく説明するのに役立つと思われるメタファーは、太陽と日光の相違点です。太陽はサグナであり、わたしたちが見ることができ、認識できる形態を持っています。ところが、日光は拡散していて、特定の形態を持たずに至るところに浸透しているため、ニルグナとみなされます。

二元的なマインドは、誰しもが魅きつけられるわけでもない純粋意識のような掴みどころのない何かよりは、仏陀やクリシュナのような姿の方が共感しやすいでしょう。その一方で、神を偉大なるミステリーか、量子が集まったエネルギーフィールドか、無として概念化することを好む人たちもいるでしょう。どちらが正しいか、誤っているのかということではありません。あなた独自の基質に語りかけるものであれば何であっても、あなたにとって神を現すものなのです。

これらのニルグナ・マントラをアファーメーションするのは容易ですが、知性では理解することはできないというのが、これらの抽象的なタイプのマントラに当てはまる共通の落とし穴です。これは時折、罠にもなりかねません。誰もが非二元性/ノンデュアリティーの教えを学び、わたしはすべてとひとつと宣言することはできますが、結局のところ、実際にこの真実が現実であると知っている人はほとんどいないでしょう。抽象的なマントラを熟考し、唱えることに価値はあるものの、究極のゴールはこれらのマントラそのものを具現化することなのです。神の姿にマントラを唱えていても、宇宙そのものに向かって唱えていても、結局は、わたしたちはわたしたち自身に唱えているだけなのです。あなたはそれ/THATそのもの(*)なのです。

*"わたしはそれ/THATそのもの"というフレーズは、真のわたしたちは、わたしたちの肉体とマインドとパーソナリティーと経歴を超越しているということを認識しているということです。わたしたちの肉体とマインドとパーソナリティーと経歴という、それらすべての根底には、人生で起きるすべてのことから全く影響を受けることのない不変の存在が息づいています。この不変がわたしたちの真の性質であり、わたしたちはほんとうは誰なのかということなのです。

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